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能登の子どもと地域の未来を編む──”ピースウィンズ・ジャパン”の歩み

ピースウィンズ・ジャパン

更新日:2025年9月21日

テレビの向こうから現地へ──能登半島地震、私たちの出動記録

 令和6年1月1日、午後4時10分。私、橋本笙子(はしもと・しょうこ)は、首都圏で家族と穏やかな新年を迎えていました。  静まり返った東京の街に突然の揺れ、長く続く振動にどこかで大きな地震が起きたと直感しました。テレビをつけると、画面には緊急速報で「能登半島で大きな地震が発生」との文字が映し出されました。さっきまでの新年の穏やかな空気が崩れ去り、私のなかで「お正月」から「緊急事態」へと意識が切り替わったのをはっきりと覚えています。その瞬間から、私たちの動きが始まりました。  ピースウィンズ・ジャパンでは、お正月であっても交代制の緊急対応体制が整っており、発災からわずか10分で空飛ぶ捜索医療団「ARROWS」の出動が決定。20分後には広島本部に対策本部が立ち上がり、第一陣が出発したのはその約4時間後でした。  私もすぐに首都圏から準備を整え、いつでも出動できるように本部と連絡を取り合い、3日の早朝、まずは金沢に向かいました。あのとき私たちの使命は、ただひとつ。「命を守ること」。

命を守る現場──昼夜を問わぬ支援の記録

 現場では、浄水装置の設置、自衛隊による入浴支援との連携、そして医療救助活動に昼夜を問わず、奔走しました。医師、看護師、薬剤師など専門職を含む支援チームとともに、一人でも多くの命を救うため動き続けました。

ピースウインズ・ジャパンのヘリコプターによる患者搬送(2024年1月)

救助犬による被災者の捜索(2024年1月)

浄水装置の設置(2024年1月)

 行政機関や保健医療福祉調整本部、他のNPO団体とも連携し、限られた時間と資源のなかで、可能な限りの支援を届けました。

避難所の環境改善対応(2024年1月)

 災害支援においては「スピード」が命です。  現場へいち早く入り、状況を正確に把握し、ニーズに応じた支援を届ける。その即応力こそがピースウィンズの最大の強みであり、これまで多くの災害現場で培ってきた経験が活かされています。  とはいえ、現場では常に難しい判断が求められます。今回の能登半島地震では、珠洲市と輪島市の双方に深刻な被害が出ていました。限られた人員と資源のなかで、どちらを優先するか──悩み抜いた末、支援の集中と継続性を考慮し、珠洲市の対応に注力することを決めました。

暮らしを支える支援へ──変化するニーズと地域再生の記録

 2024年元日の発災から1年半が経った2025年現在、現地のニーズは「命を守る」フェーズから「暮らしを支える」フェーズへと移行しています。被災者の生活再建に向けた支援が、いま私たちの主軸です。  仮設住宅や在宅で過ごす高齢者を対象に、見守り支援を定期的に実施しています。  ある日、看護師のスタッフから「一輪車で水を汲みに行っている高齢者がいる、何らかの対応ができないか」と連絡が入りました。すぐさま水源から高齢者の自宅近くまでホースを設置。些細なことのように見えても、その方の生活に与える影響は計り知れません。

在宅訪問を行うピースウインズ・ジャパンのスタッフ(2024年9月)

水源からホースを引き、水汲み場を設置(2024年12月)

 地域コミュニティの再生も、私たちの大切なミッションです。  イベント開催場所が不足するという課題に対しては、仮設集会所での茶話会(さわかい)の開催に加え、交通手段が限られる珠洲での需要を踏まえ、改造したバスを活用した移動型茶話会の実施にも取り組んでいます。  また、珠洲市の遊休地を活用し、人と馬が共生する森の放牧場として活動する「珠洲ホースパーク」との連携も検討しています。  人が集まり、語り合い、笑顔が生まれる場所をつくること。それこそが地域の絆を強め、支え合う力につながると私たちは考えています。

仮設集会所で開催された茶話会(2025年1月)

 子どもたちへの支援も極めて重要です。  教育の機会を提供し、未来への希望を育むために、コンピュータサイエンス研修やSUP体験会などのプログラムを実施。2025年8月からは屋内遊戯施設「こどものひろば(仮称)」を夏休み期間プレオープンさせました。この後、本格オープンに向けて改修工事を予定しています。  こうした取り組みは、外部の有識者の皆様によるプロボノ(社会貢献型の専門支援)活動によって支えられています。  限られた時間と資源のなかでも、熱意をもって知識を提供してくださる皆様のおかげで、子どもたちは新しい学びと出会いのチャンスを得ています。  この場を借りて、心より感謝申し上げます。

コンピュータサイエンス研修イベント(2025年8月)

こどものひろば(2025年8月)

「被災地にいる」という状況を、マイナスの要因として捉えるのではなく、むしろ「学びのチャンス」として前向きに受け止めてほしい。  そんなマインドを育むことが、子どもたちの可能性を広げる第一歩だと、私たちは確信しています。

あなたの力が、能登の未来をつくる──支援へのご協力をお願いします

 現在、ピースウィンズ・ジャパンでは、こうした教育支援をはじめとする地域支援活動にご協力いただける仲間を募集しています。  専門スキルを持つ方のプロボノ参加はもちろん、ボランティア活動、物資や資金のご支援など、支援の形は問いません。 「何かしたい」という気持ちが、現地の大きな力になります。  被災地の人々とともに歩み、希望を育てる仲間として、ぜひ私たちの活動にご参加ください。 「あきらめない集団」の一員として、あなたの力をお貸しいただけることを、心よりお待ちしています。

支援の先にあるもの──私が信じる復興のかたち

 珠洲市での支援活動を続けるなかで、私は改めて災害の多様性と、支援のあり方について考えるようになりました。  東日本大震災は津波、熊本地震は家屋倒壊、阪神淡路大震災では火災── それぞれに異なる主な直接死の要因があり、対応も異なります。  しかし、今回の能登半島地震では複数の要因が重なり、支援の難易度が著しく高まりました。津波による浸水、建物の倒壊、火災、そして地盤の液状化や隆起。加えて交通網の寸断により支援者が現地に留まらざるを得ないなど、前例のない課題が次々に立ちはだかります。  被災から時間が経過してもなお、復旧は進んでおらず、政治的な特例判断でもない限り、現場の厳しさは長く続くでしょう。  それでも、私たちは諦めません。むしろこの状況だからこそ、支援の継続が必要だと感じています。  珠洲市が持つ地域力は、特筆すべき点です。  単身高齢世帯が全体の約4分の1を占めていたにもかかわらず、介護認定を受けていた方が少ない。これは、日常的な助け合いや地域のつながりがしっかりと機能していたことの証です。  この尊さを守り、持続可能な地域づくりを進めるため、私たちは交流人口の増加を目指しています。  人が行き交い、助け合い、笑い合えるまち──それこそが、私が信じる「復興のかたち」。  災害支援を単なる一時的な対応に留めるのではなく、地域とともに歩む未来の創造へと昇華させることが、私たちピースウィンズの目指す道です。  そして、私自身の思いは一貫しています。──「ふるさとに誇りを持つ子どもたちを育てたい」。  そのために、私はこれからも現場に立ち続け、支援を続けます。  あきらめない集団がいる限り、この世界はきっと、何度でも立ち上がれる。  私はそう信じています。

事業者プロフィール

ピースウィンズ・ジャパン

代表:珠洲事務所 事業統括 橋本笙子 所在地:石川県珠洲市上戸町北方7-78

取材後記

 ピースウィンズ・ジャパンの橋本さんから取材場所として指定されたのは、廃業した病院の建物でした。  令和5年の奥能登地震で被災したこの病院は、地域医療の要として、補助金を活用した建物の修繕を進める予定でした。しかし、令和6年の能登半島地震により再び大きな被害を受けました。度重なる地震被害に加え、医院長がご高齢であったこともあり、病院はやむなく廃業という選択をされたそうです。  かつて地域医療の拠点だったその建物は、現在では地域支援の拠点として、新たに命を支えています。  取材に訪れたその日、病院内は引っ越しの真っ只中。積み上げられた段ボール、汗を流しながら荷物を運ぶスタッフたち──その光景は、まさに「再起の現場」でした。  驚いたのは、取材時に座っていた机の周囲に置かれていた、たくさんの野菜。それは、地元の人々が「ありがとう」の気持ちを込めて届けてくれたものだと、橋本さんから聞きました。土の香りが残るそれらは、地域との温かいつながりを象徴しているようでした。  取材させていただいた橋本さんは、阪神・淡路大震災をきっかけに復興支援の道へ進み、以降30年にわたり、海外を含むさまざまな場所で支援活動に従事してきたそうです。  その原点には、「被災地に寄り添い、未来をつなぐ」という強い信念がありました。今回の能登半島地震でも、橋本さんはその思いを胸に、珠洲市の子どもたちの未来を見据えた支援にも力を注いでいます。  珠洲市では子どもたちの数が減少を続け、小中学生の数は400人を下回っているとのこと。  やむを得ず地元を離れた子どもたちにも、ふるさとを誇りに思ってほしい。被災をネガティブに捉えるのではなく、前向きに受け止められるようなマインドを育てたい──橋本さんは、そんな強い思いを語ってくれました。  私がこの場所で感じたのは、「支援は命をつなぐだけではなく、未来を育てるものでもある」ということ。  私の本職はITエンジニアです。自分にできることは何か?そう考えたとき、子どもたちに向けたプログラム教育を通じて、学びと希望を届けることも私の役割だと強く感じました。現在は、会社の仲間にも声をかけながら、活動につなげていけるよう動き始めています。  能登の地に、再び人々の暮らしと笑顔が灯る日を信じて。  私たちもまた、その循環の一部になれるのだと、強く感じた取材でした。

田村 亘(たむら・わたる)

 都内の金融機関向けITエンジニアとして勤務するかたわら、マラソンやトライアスロンに情熱を注ぐ。完走を目的に全国各地のレースへ参加し、旅先ではご当地グルメを楽しむのがライフワーク。なかでも、珠洲トライアスロン大会で泳いだ透明度の高い海は、今も心に残る特別な体験。  令和6年能登半島地震からの復旧・復興のために、「少しでも力になりたい」という思いから、ライターとして能登を訪問。現地の人々の声や風景、復興への歩みを丁寧に綴り、情報発信を通じて支援の輪を広げることを目指している。

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