
能登の子どもと地域の未来を編む──”ピースウィンズ・ジャパン”の歩み
ピースウィンズ・ジャパン
更新日:2025年9月21日
テレビの向こうから現地へ──能登半島地震、私たちの出動記録
命を守る現場──昼夜を問わぬ支援の記録
ピースウインズ・ジャパンのヘリコプターによる患者搬送(2024年1月)
救助犬による被災者の捜索(2024年1月)
浄水装置の設置(2024年1月)
避難所の環境改善対応(2024年1月)
暮らしを支える支援へ──変化するニーズと地域再生の記録
在宅訪問を行うピースウインズ・ジャパンのスタッフ(2024年9月)
水源からホースを引き、水汲み場を設置(2024年12月)
仮設集会所で開催された茶話会(2025年1月)
コンピュータサイエンス研修イベント(2025年8月)
こどものひろば(2025年8月)
あなたの力が、能登の未来をつくる──支援へのご協力をお願いします
支援の先にあるもの──私が信じる復興のかたち
事業者プロフィール
取材後記
ピースウィンズ・ジャパンの橋本さんから取材場所として指定されたのは、廃業した病院の建物でした。 令和5年の奥能登地震で被災したこの病院は、地域医療の要として、補助金を活用した建物の修繕を進める予定でした。しかし、令和6年の能登半島地震により再び大きな被害を受けました。度重なる地震被害に加え、医院長がご高齢であったこともあり、病院はやむなく廃業という選択をされたそうです。 かつて地域医療の拠点だったその建物は、現在では地域支援の拠点として、新たに命を支えています。 取材に訪れたその日、病院内は引っ越しの真っ只中。積み上げられた段ボール、汗を流しながら荷物を運ぶスタッフたち──その光景は、まさに「再起の現場」でした。 驚いたのは、取材時に座っていた机の周囲に置かれていた、たくさんの野菜。それは、地元の人々が「ありがとう」の気持ちを込めて届けてくれたものだと、橋本さんから聞きました。土の香りが残るそれらは、地域との温かいつながりを象徴しているようでした。 取材させていただいた橋本さんは、阪神・淡路大震災をきっかけに復興支援の道へ進み、以降30年にわたり、海外を含むさまざまな場所で支援活動に従事してきたそうです。 その原点には、「被災地に寄り添い、未来をつなぐ」という強い信念がありました。今回の能登半島地震でも、橋本さんはその思いを胸に、珠洲市の子どもたちの未来を見据えた支援にも力を注いでいます。 珠洲市では子どもたちの数が減少を続け、小中学生の数は400人を下回っているとのこと。 やむを得ず地元を離れた子どもたちにも、ふるさとを誇りに思ってほしい。被災をネガティブに捉えるのではなく、前向きに受け止められるようなマインドを育てたい──橋本さんは、そんな強い思いを語ってくれました。 私がこの場所で感じたのは、「支援は命をつなぐだけではなく、未来を育てるものでもある」ということ。 私の本職はITエンジニアです。自分にできることは何か?そう考えたとき、子どもたちに向けたプログラム教育を通じて、学びと希望を届けることも私の役割だと強く感じました。現在は、会社の仲間にも声をかけながら、活動につなげていけるよう動き始めています。 能登の地に、再び人々の暮らしと笑顔が灯る日を信じて。 私たちもまた、その循環の一部になれるのだと、強く感じた取材でした。
田村 亘(たむら・わたる)
都内の金融機関向けITエンジニアとして勤務するかたわら、マラソンやトライアスロンに情熱を注ぐ。完走を目的に全国各地のレースへ参加し、旅先ではご当地グルメを楽しむのがライフワーク。なかでも、珠洲トライアスロン大会で泳いだ透明度の高い海は、今も心に残る特別な体験。 令和6年能登半島地震からの復旧・復興のために、「少しでも力になりたい」という思いから、ライターとして能登を訪問。現地の人々の声や風景、復興への歩みを丁寧に綴り、情報発信を通じて支援の輪を広げることを目指している。


