輪島と聞いて、多くの人が思い浮かべるものの一つが「輪島朝市」ではないでしょうか。約360メートルの通りに露店が並び、魚や干物、海藻、野菜、民芸品などを売る人と観光客が言葉を交わす、輪島を象徴してきた風景です。
けれど、私たちが「朝市通り」と呼んできた場所には、当然ながら朝市だけがあったわけではありません。その通りを拠点に商売や暮らしを営んできた人たちがいて、その中心となる商店街が輪島市本町商店街です。
2024年1月1日の能登半島地震と、その後に発生した大規模火災によって、石川県輪島市河井町(かわいまち)の本町地区・朝市通り周辺は甚大な被害を受け、全国ニュースでも「輪島朝市の焼失」が繰り返し報じられました。しかし、そこで失われたのは、毎朝テントを設営して出店する朝市だけではなく、通りに店舗を構えていた商店や、そこで人々が暮らしていた住居でした。
焼失したエリア一帯の公費解体は2025年4月までかかり、その後も更地の状態が長く続きました。震災から2年半以上が経過した2026年10月現在時点でも、仮設店舗で仮営業を続ける店、市内の別の場所へ移転し営業を再開した店、そしていまだ営業を再開できていない店があります。かつて一つの通りに並んでいた商店は、それぞれ異なる場所、異なる形で再建への道を歩んでいます。
その一方で、まちの再建計画が話し合われてきました。その再建計画のなかで商店街の復興のため日夜奔走しているのが、今回お話を聞いた輪島市本町商店街振興組合の事務局長・山崎瑞稀(やまざき・みずき)さんです。山崎さんはもともと商店街で店を営んでいたわけでもなく、それどころか「めっちゃ輪島が嫌いだった」と話す30代の女性です。なぜ商店街の復興に関わることになったのか、そして2027年春のオープンを目指す商店街の新施設についてお話をうかがいました。
[取材・構成 坂下有紀]
都会に憧れ、好きになれなかった輪島を出たかった
私は朝市通りがある石川県輪島市河井町(かわいまち)で生まれ育ち、高校生のときに輪島市三井町(みいまち)へ引っ越しました。小・中・高校と輪島で過ごし、高校卒業後は石川県羽咋(はくい)市の企業に就職が決まりました。しかし、リーマンショックの影響で卒業式直前にその会社から内定を取り消されてしまいました。

高校の先生たちが必死で就職先を探してくれて、何とか地元の漆器関係の事務の仕事に就くことができました。3年の契約期間が終わるころ、母校である輪島実業高校(現在は統廃合により輪島高校)の先生から声がかかり、高校で商業科目の実習助手として約7年半勤務しました。
けれど、心の中にずっとあったのは「輪島を出たい」という想いでした。口癖のように「今年こそ辞める」「金沢に出たい」って言っていましたね。
その後、輪島を離れて金沢へ行くことになり、病院やエステサロンなどで事務の仕事をしながら約5年間を過ごしました。そして次に目指したのは、さらに大きな街でした。大阪の建築事務所で広報の仕事をすることが決まり、2024年2月から働く予定でした。SNSや情報発信を仕事にし、新しいスキルを身につけたい。大阪で経験を積んで、キャリアアップしようと考えていました。輪島へ戻るつもりは、まったくありませんでした。
ところが、大阪へ移る直前の2024年1月1日、能登半島地震が発生したんです。私は大阪での仕事の内定を辞退しました。それは「故郷を救わなければ」という使命感とは少し違っていて、「地元のためというより、自分のためだった」と思います。

被災した故郷を前にして語るには、不謹慎に聞こえるかもしれませんが、ここで何かチャンスをつかめるかもしれないと思ったのです。私はずっと「40歳までに何かしたい」と思っていました。
輪島に残る古い考えや田舎の人間関係が嫌いでした。震災の被害は大変なことだけど、これは輪島のまちを変えられるチャンスなんじゃないだろうか。リセットされたまちを、嫌いだったまちを、自分仕様にできるチャンスになるのではないかと思ったんです。

震災からの復興は、元の輪島へ戻すのではなく、自分たちの世代が「ここなら暮らしたい」と思える輪島を、これからつくればいい。過去を再現することだけではなく、これまで変えられなかったものを変える機会になるのではないかと期待しました。
「何かさせてください」から始まった事務局長の仕事
金沢から輪島へ戻ることに決めたとき、輪島市の復興計画検討委員会の市民公募を知って応募しました。40歳以下の市民を対象とした枠でした。そこで改めて感じたのが、朝市通りの存在でした。輪島の復興を考えたとき、この場所は避けて通れません。

「朝市通りは復興の象徴」になると思っていましたが、私自身は朝市で商売をしていた当事者ではありません。しかし、輪島市本町商店街振興組合には私の親世代の人が多くいて、理事長は同級生のお父さんで、加盟店にも昔から顔を知っている人たちがたくさんいました。
2024年の春頃だったと思います、私は本町商店街に「何かさせてもらえませんか」と声をかけました。最初からすぐに仕事につながったわけではありません。ところが後日、理事長と再会した際に、「これから事務が大変になるから、商店街組合の事務で入ったら?」と声をかけられました。

事務職は経験もあったので、すぐに「事務ならできます」と引き受けました。ところが、入ってみると想像していた「事務」とはまったく違いました。
「あれも決めて」「これもやって」と、どんどん仕事が振られました。震災を機に以前の事務担当者が離職し、事務局の仕事を担う人がいなくなっていたからです。そして、理事の皆さんは、それぞれ被災した自分の店や仕事の復興に忙しい。「全部任せるなら肩書きがあった方がいい」ということで、私の名刺には「事務局長」の肩書きが加えられました。

▶シロシル能登 再びあの場所で朝市を──“出張輪島朝市”がつなぐ、商いと復興の歩み
「事務局長」といっても、事務所で書類をつくっているだけではありません。ホームページの刷新、SNSでの情報発信、補助金事業、会議、視察、イベント、新しい商業施設の計画、入居する事業者との調整。復興する商店街をどう動かしていくのか。その実働部分の多くを担う立場になっていきました。
私が事務局に入ったのは2025年7月からで、それよりずっと前から本町商店街では震災後のまちをどう再建していくのか、話し合いが続けられていました。2024年1月の地震と大規模火災で、本町商店街は店舗の焼失や倒壊など甚大な被害を受け、商店街そのものが存続できるのかという状況でした。

それでも、震災から約2か月後の3月には輪島市朝市組合の皆さんによって、朝市エリアをこれからどう復興させていくのか話し合いが始まりました。4月から7月にかけては、輪島朝市組合と本町商店街の若手を中心に13回の検討会を重ね、施設整備についての提案書がまとめられました。

その提案書を輪島市復興まちづくり検討委員会に提出したのが、2024年9月20日でした。ところが、その翌日に能登半島豪雨が発生しました。地震と火災に続いて、同じ年にもう一度大きな災害に見舞われたのです。
それでも計画を止めず、同年12月には復興プロジェクトの第一弾となる賃貸型商業施設の整備事業が動き始めました。商店街の皆さんにとっては、自分のお店や家を失った状態で、自分自身の生活や商売の再建と同時に、商店街全体の未来も考えなければならなかったんです。
店を建てるだけでは、商店街は戻らない
現在、私の最大のミッションは、朝市通りに復興プロジェクトとして、飲食店や物販のお店が入居する賃貸型商業施設をオープンさせることです。すでに1棟の建設が始まっていて、11月から残りの3棟も着工予定で、2027年4月末の一斉オープンを目指しています!

飲食棟はフードコートスタイルで複数の飲食店が入り、物販棟にも複数の店舗がテナントとして入居する計画で、4棟合わせて全14店舗を予定しています。

しかし、建物が完成し、テナントが入れば、それだけで商店街が復活するわけではありません。どんな店が入り、4棟の中でどう連携していくのか。厨房設備はどうするのか。お客さんが歩きたくなる配置になっているか。看板や外観はどうするのか。共用スペースを誰が管理するのか。オープンした後、どうやって人を呼び続けるのか。そして、数年後に補助がなくなった後も運営していけるのか。

特に飲食店に関する知識がなかったので、排水や電力、ガス、厨房機器、店舗レイアウトから管理体制まで、わからないことだらけ、決めなければならないことが山積して悩まされました。

このプロジェクトで特に意識しているのは「箱をつくって終わり」にしないことです。新しい施設には、オープン直後こそ多くの人が訪れます。しかし、本当に難しいのはその後です。
最初はテレビ局とか新聞などのメディアも取り上げてくれて、お客さんもたくさん来てくださると思います。でも、そのときに来てくれた人が「なんだ、この程度か」って思ったら、二度と来てもらえない。だから最初が一番大事だと思っています。なので、店づくり、商品、サービス、広報、運営の仕組みまで、今から考えておかなければ。
焼け跡から、「はじまり」をつくる
新しい賃貸型商業施設が完成するのは2027年春。しかし、それまで何もしないわけではありません。少しずつ、オープンの準備、告知を進めています。
2026年9月13日、本町商店街振興組合では輪島本町・朝市エリア「復活のはじまり市」を企画・開催しました。会場は新施設を建設する輪島本町通り多目的広場予定地。飲食ブースやキッチンカーが並び、お楽しみ抽選会、子どもの遊び場、和太鼓演奏などのステージイベントが開催され、多くの人が訪れました。告知のポスターは、朝市のテントのオレンジ色を基調に、大地から小さな緑の芽が伸びる姿を描きました。

イベント名の「はじまり市」も、建物が完成してからまちが始まるのではなく、何もない場所に人が集まり、食べ、話し、笑う。そこから少しずつ、まちを取り戻していく。そして2027年春には、この場所に飲食棟と物販棟が完成する明るい未来を伝えたかったんです。
「元の輪島に戻したい」ではなく、「好きになれる輪島にしたい」
私は「復興に人生を捧げる人」ではありません。今でも、輪島を出たいと言っています。だけど同時に、やりたいことが次々と出てきます。
商店街をどうするか。ラジオをどう使うか。輪島の市街地と町野エリア、門前エリアをどうつなぐか。高校生が地域と関わる場所をどうつくるか。若い人たちが一度輪島を離れても、いつか戻ってきたいと思えるきっかけをどう残すか。
私は輪島市町野町にできた臨時災害放送局(災害FM)「まちのラジオ」のパーソナリティを務めています。現在は出演する側から一歩引き、運営や地域をつなぐ側へ回ろうと考えていて、今後は高校生にもラジオに関わってもらいたいと思っています。
商業科目の実習助手をしていた経験もあり、私は輪島高校の「総合的な探究の時間」の取り組みにも関わっています。私を含む地域の大人たちがさまざまな分野から定期的に総合学習をサポートし、探究の充実を図っています。私は主にグループワークで商品開発をしたいチーム、カフェを作りたいチームなどをサポートしていて、生徒たちのアイデアを聞いてアドバイスしたり、必要に応じて専門家をつないだりしています。

能登には大学がありません。進学するにも、就職するにも選択肢が限られています。若い人が一度は故郷を離れ、外の世界に出るのはいいことだと思うんです。でも、また戻ってくるきっかけは必要。だから、高校生のうちに地域との関わりの種をまいておきたい。これは、自分自身が輪島を出たかったからこそわかることなのかもしれません。

「輪島に残りなさい」と若者を引き止めるのではない。外へ出てもいい。それでも、いつか戻ってみようと思えるまちにしておく。そのためには、今いる大人たちがまちを変えなければならない。それを自分一人でできるとは思っていません。
「これからの輪島を、誰がつくるのか」──誰かが動かないと、何も動かない。仲間は欲しいですね。同世代で、同じような想いを持った人がもっといたらいいなと思います。
関わりシロ
本町商店街の復興は、まだ途中です。2027年春には、飲食棟と物販棟からなる新しい賃貸型商業施設のオープンが予定されています。まずは輪島本町・朝市エリアを訪れ、営業を再開した店で食事をしたり、商品を購入したりすることも大きな応援になります。
本町商店街では、これからもイベントやSNSを通じて復興の様子を発信していく予定です。そして応援してくれる人はもちろん、一緒に考え、動いてくれる「仲間」も募集しています。
店舗運営、飲食、デザイン、広報、イベント、まちづくりなど、それぞれが持っている経験や得意なことが、このまちの新しい形につながるかもしれません。完成した輪島を見に行くだけでなく、再構築されていく新たな輪島に関わることも、今だからできる能登との関わり方です。
取材後記
山崎瑞稀さんとは、ボランティア団体「のとテラス」の取材を通して知り合いました。最初から印象的だったのは、その柔軟な行動力と、明るい笑顔、ポジティブな思考でした。
▶シロシル能登 能登に光を、地域に寄り添う力を──能登町発のボランティア団体“のとテラス”の挑戦
今回改めてお話を聞いて、「輪島が好きだから復興のために頑張る」という単純な物語ではないことが、むしろ山崎さんらしいと感じました。「輪島が嫌いだった」「今でも外に出たい」と言いながら、商店街のことを考え、ラジオのことを考え、高校生の未来を考え、次から次へとアイデアが出てくる。
好きになれなかったところを知っているからこそ、「だったら変えればいい」と思えるのかもしれません。震災からの復興というと、失われたものを「元に戻す」ことに目が向きがちです。でも、本当に必要なのは、以前と同じまちを再現することだけではないはずです。
ここで暮らす人たち、そしてこれからを担う世代が、「このまちなら暮らしたい」「いつか戻ってきたい」と思える場所をつくること。
本町商店街の新しい商業施設が完成するのは2027年春。けれど、まちづくりはもう始まっています。9月・10月に開催のイベント「復活のはじまり市」の名前のように、今はまだ、小さな「はじまり」ですが、その芽がどんな商店街に育っていくのか、これからも見届けたいと思います。





