2024年元日に発生した能登半島地震から2年半、「能登に行きたいけれど、行けない」という気持ちを抱えたまま、時間だけが過ぎていった人も少なくないのではないでしょうか。現地の状況がわからない。ボランティアの受け入れ体制も見えづらい。仕事や家庭の都合で長期の滞在は難しい。それでも、何かしたいという想いがある——。
東京・江東区の団地の一角に、その感情をそのまま持ち込める場があります。「東京から能登を応援する」をコンセプトに、一般社団法人NOOK(のおく)の瀬尾夏美(せお・なつみ)さん、小森はるか(こもり・はるか)さんと編集者の川村庸子(かわむら・ようこ)さんら3名が発案者となり、2024年10月に発足した“のと部”です。
今回は、“のと部”の発案者である瀬尾夏美さんと川村庸子さん、そして部員を伴って能登へ頻繁に訪れている中村亮太(なかむら・りょうた)さんに“のと部”についてお話をうかがいました。
<プロフィール>
瀬尾夏美(アーティスト・作家)
東日本大震災をきっかけに、仙台市内や三陸沿岸各地でリサーチ、記録、表現活動を行ってきたアーティストや研究者からなる一般社団法人NOOKの代表理事。東日本大震災以降、沿岸部でリサーチと表現活動を続け、土地の人びとの言葉と風景を記録し、「語れなさ」をテーマに作品を制作している。“のと部”の発案者の一人。
川村庸子(編集者)
アートや福祉を軸に、さまざまなプロジェクトに伴走しながら編集を行っている。編集した主な書籍は、芹沢高志+港千尋著『言葉の宇宙船 わたしたちの本のつくり方』(ABI+P3共同出版プロジェクト)、『東北の風景をきく FIELD RECORDING』(アーツカウンシル東京)など。“のと部”の発案者の一人。
中村亮太(会社員)
岐阜県高山市出身、東京都在住、会社員。2025年1月に能登で初めて災害ボランティアに参加し、同月より“のと部”へ参加。新しいこと、楽しいことを沢山味わいたい。年に何度も能登を訪れ、“のと部”では能登と部員をつなぐ窓口に。能登に寄り添った生き方を模索中。2026年8月から転勤により石川県金沢市へ移住予定。
[取材・構成 坂下有紀]
行けない人のために、場をつくる
瀬尾:“のと部”は東京都江東区の団地の一角をリノベーションしたコミュニティスペース「Studio 04(スタジオゼロヨン)」を拠点に、月に一度、出入り自由の部室をひらき、さまざまな活動を展開しています。首都圏からできる能登の情報発信や応援を行う班、実際に能登へ足を運んでボランティア活動を行う班など、参加者それぞれが能登への想いを持ち寄って活動しています。
「Studio 04」は、東京都江東区の大島四丁目団地内に2023年にオープンしたスペースで、UR都市機構と東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京(ACT)と連携して設置し、私が代表理事をつとめる東日本大震災をきっかけに発足した一般社団法人NOOKが運営しています。

川村:2024年1月の能登半島地震、そして9月の奥能登豪雨。二度の災害を経て、現地では復旧・復興が続いています。一方で、「現地の状況がわからない」「行きたいけれど行けない」という声から、情報共有をしたり、現地に行く後押しをしようという目的ではじまりました。

瀬尾:“のと部”は、そうした人たちが集まり、現地の情報を共有しながら、それぞれの距離で関わり方を見つけていく場です。支援のための組織というよりも、「関わり方をつくる場」と言ったほうが近いですかね。
私が初めて能登を訪れたのは、2024年の5月でした。金沢へは行ったことがありましたが、能登は令和6年能登半島地震の発災後に初めて行きました。現地に行ってみると、思っていたよりもボランティアが少ないと感じました。東日本のときと比べても、市民ベースの関わりが弱い印象がありました。
川村:私は2024年9月11日に初めて能登に入って、3泊4日で滞在しました。現地を訪れると集落ごとの被害状況がさまざまで、「被災地」と一括りにできない複雑さと、それゆえの内外への情報の届きにくさを感じました。しかも、この滞在ののち、9月21日に奥能登豪雨が発生してしまったんです。

中村:自分は岐阜県高山市の出身で、同郷の友人・加藤陽介さんが金沢大学で学んでいたので金沢には何度か訪れていて、能登も1回だけ行ったことがありました。“のと部”に参加して能登を頻繁に訪れるようになったのは、2025年1月に珠洲市大谷町で災害ボランティアとして床下の泥出しに参加してからです。
このときも能登に関わるきっかけをくれたのは、2024年11月から“のと部”に加入していた加藤さんです。大谷での床下泥出しは20人くらいで1日作業しても、1軒の3割くらいしか終わらなくて。「1回のボランティア活動では全然進まない」と思いました。

瀬尾:今では中村さんと加藤さんが中心となって、のと部のメンバーを現地に連れて行ってくれています。東京から能登に行くハードルって、いろんな意味で高いんですよね。時間やお金の問題もあるし、運転免許がないと現地で動きづらい。東日本大震災のときも同じような地理的課題はありましたが、この10年あまりで社会の空気も状況も変わったと感じます。
私たちの世代だと、子育てしている人や、仕事で動けない人も多い。でも、関わりたい気持ちはある。その人たちのために、関わり方のハードルを下げつつ、バリエーションを増やす場として、私たちは“のと部”を始めました。無理して現地に行くことだけを目標にするんじゃなくて、東京でできる準備や関わり方を整える場が必要だと思うんです。
川村:「行こうと思ったけど行けなかった」という人は本当に多いですよね。もちろん現地に行けたらいいけれど、離れた場所にいてもできることはあるはず。その気持ちを持ったまま来られる場所があったらいいと思いました。
まずは、自己紹介から始める
瀬尾:川村さん、小森さん、私の3人で話し合い“のと部”を始めることにしました。SNSで「東京から能登を応援しよう」と呼びかけたら、2024年10月の初回は「Studio 04」に40人近くが集まりました。そこで、自分たちが現地で見聞きしたことや、これからやろうとしている“のと部”のコンセプトを伝えました。

川村:最初は、まず自己紹介から始めました。どんな人がどういう思いで来ているのかを互いに知ることが大事だと思って。今では現地の団体がSNSでさまざまな情報発信を行っていますが、当時は情報も少なく、「どんな状況なのかを知りたい」「ボランティアに行きたいけれど、行き方がわからない」という人などが多かったですね。
中村:毎月開催している“のと部”の定例会では、新しく参加した人が自己紹介をするのが定番になっていますね。

川村:毎回、自己紹介のあとは能登に行ってきたメンバーからの報告があって、どこで何をして、何を見聞きしたのかを聞きます。そのあと、その日集った人たちの興味・関心に合わせて班にわかれて話す流れができてきました。
瀬尾:いろんな関わり方の人がいてよくて、定例会に来るだけでもいいし、聞くだけでもいい。
川村:それでも関係性は育まれていくんですよね。みんな「能登のために」という共通の気持ちがあるから。
中村:“のと部”に来ている人のなかには、「興味はあるけど能登へ行ったことがない」という人が結構います。そういう人に僕は「いつ行けますか?」と聞いて、日程を合わせて一緒に行くようにしています。
2025年だけで10回くらい行っていますね。能登が初めての人を連れて行くことが多くて、4名くらいのときもあれば、10名以上になることもありました。


川村:中村さんと加藤さんが、今ではすっかり現地に行く窓口になっていますよね。
中村:関心があっても能登へ行けない人の多くが、運転免許がない人、どうしていいかわからず一人では行きづらい人、一歩踏み出すきっかけを求めている人なので、僕たちがサポートすることで「この人たちと一緒なら行けそう」と思える環境をつくることを意識しています。


最近は活動の内容も災害支援というより、地域の営みに関わる形に変わってきています。最初は豪雨後の泥かきなどの災害ボランティアが中心でしたが、今は畑作業を手伝ったり、イベント会場の設営や片付け、来場者へのお茶配りといった運営サポートをしたりすることが増えてきました。

現地での活動も人と人とのご縁で次の活動に声がかかるなど、関係が継続的に続いています。5月にオープンした輪島市の「らいか堂」も、ご縁がつながり春に土間づくりのお手伝いをしました。現地のニーズはどんどん変化していて、それに応じて僕たちの活動内容も変化しています。
川村:やはり公費解体が大きな区切りですよね。徐々に復旧から、復興や地域づくりのフェーズに入ってきている感じがあります。
瀬尾:東日本大震災の経験からすると、実はこれからが本当に大変なんです。公営住宅や新居へ引っ越す人がいる一方で、再建の見通しが立たない人もいる。時間が経つほど、外から人が来なくなることへの不安も大きくなります。
このごろ、現地の方から「いつまで仮設住宅にいるんだろう」「未来のことを考えると怖い」という声を聞くこともあります。だからこそ私たちは「忘れていませんよ」「ここにいますよ」と伝え続けることが大切だと思っています。
川村:それぞれが出会った人たちとの関係が、1回きりではなくゆるやかにでも続いていくことが大事だなと思います。
“のと部”という場の広がり
瀬尾:“のと部”の活動は、部室の中だけにとどまりません。現在は、さまざまなプロジェクトが動いていて、それぞれが関心のある活動に参加しています。現地に行ったり、ポッドキャスト、SNS、掲示板などで発信したり、グッズをつくって寄付を募ったり。それぞれが、自分たちにできる形で関わりを続けています。
<のと部の活動> (2026年7月現在)
現地に行く班
記録班
ポッドキャスト班
情報整理班
のと部グッズ班
SNS班
川村:2026年3月には「Studio 04」がある団地の自治会に協力していただいて、団地の広場と「Studio 04」で「のと部 春まつり」を開催しました。『能登でつながる のと部のZINE #1』や食べ物、能登の物産品の販売、現地の様子を記録した作品展示、能登の昔話の読み聞かせ、チャリティバザーなど、一人ひとりが持ち寄った活動が一堂に会した賑やかな催しになりました。
団地ではチラシのポスティングも行い、団地にずっと暮らしている方や、インドや中国、韓国出身の家族、子どもたちなど、いろんな人たちが来てくれました。能登を応援する仕組みであると同時に、東京側のコミュニティも育っていることを実感しましたね。





瀬尾:「能登のための活動」が、「東京のコミュニティを育てる活動」にもなっている。現在では、“のと部”の登録者は160人を超え、金沢や横浜など、各地の「のと部」も生まれ始めています。繰り返しになりますが、東北の経験からすると、これからが本当に大変なんですよね。家の再建や暮らしの再建は、長い時間がかかる。
川村:被災地では外から人が来なくなることへの不安もありますよね。だから「忘れていないですよ」と伝え続けることも大事だと思っています。支援という具体的に役に立つ関係だけではなくて、「一緒に悩む・楽しむ」「心を寄せる」という関わり方もあると思います。
瀬尾:支援しているつもりだったけれど、実は私たちの方が能登からたくさんのものを頂いているんですよね。能登の人たちに出会い、好きな場所ができて、東京のコミュニティまで豊かになっている。そういう循環が生まれていると思います。
中村:自分はこれからも、能登にも、“のと部”にも寄り添っていきたいと思っています。
瀬尾:“のと部”は東京だけじゃなくて、いろんな場所に広がっていけたらいいですよね。
関わりシロ
“のと部”の活動は、東京だけでは完結しない。「能登へ行きたい人」と「現地のニーズ」をつなぐ役割を担いながら、単発ではない関係を築き、その積み重ねが、次の関わりへとつながっています。そして、東京以外の地域でも、能登を想う活動が芽吹き始めています。
“のと部”の部室に行って活動に参加してみる
能登に行く/行かない、それぞれの関わり方を見つける
記録する、聞き手になる
能登の情報を発信する/整理する
ポッドキャスト配信を手伝う
“のと部”の運営に関わる
能登のものを購入する
“のと部”のイベントに参加する(楽しむだけでも全然アリ)
さまざまな関わりシロ、関わりかたで、あなた自身も能登に関わってみませんか。
取材後記
取材を通じて何度も感じたのは、“のと部”の人たちは驚くほど能登のことを気にかけ続けているということでした。
もちろん石川県内にも能登を応援する人はたくさんいます。しかし日常の暮らしのなかにいると、震災は少しずつ過去の出来事になっていく。2024年、2025年、そして2026年。発災から2年半が経ち、全国的には能登の話題を耳にする機会も少なくなりました。復旧から復興へ。そう表現されることも増えました。
けれど実際に能登を歩くと、復興という言葉だけでは表現しきれない現実があります。解体を待つ家屋、仮設住宅で続く暮らし、再建の見通しが立たない人たち。能登はまだ道半ばです。だからこそ“のと部”の存在が印象に残りました。
彼らが届けているのは、労働力やお金の提供だけではなく、「忘れていません」「また来ました」「一緒に考えています」というメッセージそのものなのだと思います。
能登の人たちにとって、それは時に物理的な支援以上の励ましになるのではないでしょうか。支援する人と支援される人。その関係を超えて、互いの顔が見える関係を育てていく。東京の団地の一角から始まった小さな部活は、そんな新しい復興の形を示しているように感じました。




