能登半島の先端、珠洲市蛸島(たこじま)で、20年以上にわたり「魚と塩だけ」の干物を作り続けてきた“さかな屋甚五朗(じんごろう)”。
令和6年能登半島地震によって“甚五朗”の工場は全壊。隣接するビルの解体を巡る役所との交渉や手続きで、1年半もの間、再起への足踏みを余儀なくされた。壊れた冷凍庫から傷んだ魚をゴミ袋に詰めて運び出したあの日。激変した地元の漁業環境、そして7,000万円にのぼる再建費用。震災の被害だけでも甚大。それ以上に“甚五朗”を営む夫婦を疲弊させたのは、役所とのやりとりだったという。
今なお、先行きが見えないなか、一筋の光は“甚五朗”の干物を待つ全国の顧客だ。絶望と意地がせめぎ合うなか、「もう未来はないかもしれない」と暗闇のなかで過ごした日々を、店主・番匠利一さん、佳子さん夫妻は思い起こします。
取材:2025年12月17日
[取材・構成 米谷美恵]
あんたのもんじゃないから教えられない

うちの作業場の被害も相当だったんだけどね。隣にある10年以上前に倒産した会社の4階建てのビルが余震のたびに崩れてきて、いつうちの作業場を押し潰してもおかしくない状態やった。
10年以上放置されてるし、状態もあまりにもひどいから、役所に行って、「今、どんな状況になっているのか教えてほしい」って言ったんです。そしたら「あんたのもんじゃないから教えられない」っていうふうに言われて……。
あんまり腹が立ったから、ビルの管財人である弁護士に連絡を取ったんです。そしたら「自分たちも手続きに入ってるんだけど、地震の影響で仕事が滞ってて動けない。あんたが動いてくれないか」って。
管財人から委任状をもらって、解体の手続きも、申請も、解体に関する処理も、一切合切引き受けてね。それで役所に問い合わせして、ようやく2025年4月に解体の手続きが受理された。
だけど、6月にコンサルと一緒に3社で解体の見積もりを取ったんだけど、最終的には解体業者と役所の見積もりがまるっきり合わなくて、全然解体を進めてもらえなかった。
申請してから、7月にようやく動き出すまで、1年半ですよ。その間、私は仕事ができないから、アルバイトをしないと飯が食えないような状態だった。役所の人らも被災者だし、案件が多いことはわかるけど、そこに埋もれてしまってなかなか先に進めなかった。
痛んだ魚をゴミ袋に詰めて、黙々と集積所に運んだ1か月


震災で、冷凍庫が動いてしまってドアが開かなくなった。「電気も来ないし、バールで開けてもらおうや」って、開けたらもう全部だめになってた。
市の指定のゴミ袋をたくさん買ってね。傷んだ魚をいっぱい入れると袋が破れるから、半分だけ入れて。ゴミ収集場所に、15キロにもなる袋を10袋、15袋と持って行きました。火曜日と金曜日がゴミの日だから、毎週火曜日と金曜日。それを1か月くらい続けました。食べられなくなっちゃった魚やサザエ、一生懸命作った干物を自分たちの手で処分したんです。
クラファンは成功した。でもまた前に立ちはだかる7,000万円の壁
クラウドファンディングはね、私らはそういう知識はなんにもなかった。たまたま京都へ避難したとき、妹が家族と相談して、「クラファンやろうや。私らも手伝うから」って。名古屋の姪っ子とか親戚のみんなが一生懸命になってくれた。
そのときはね、目標額の700万円はあっという間に集まって、クラファンの担当者が「どうしてこんなに集められるんですか」ってびっくりしてた。たくさんのかたが助けてくれました。本当にありがたかったです。
だけど、いざ工場を建て直そうと思ったら、業者がいない。解体や復旧で目いっぱい手いっぱいなんです。それに、新しい建物と設備で、7,000万円かかる。国や役所がいくら出してくれるのか、その金額がはっきりしない限りは、自分の家の再建にも手を出せない。そんな潤沢な資金があってやってるわけじゃないから。
今はまだ、仮設住宅にいます。更地になったところの地盤調査をやって、図面がそろそろ上がってくるか……そういう段階です。
素材だけの勝負、でも魚が残らない

未来の蛸島に残していきたいものはたくさんあるけど、まずは自分らの生活基盤をしっかりやらないと人を助けようというところまで頭が回らない。今は、自分たちのことの方が心配だから。今は妻にケツ叩かれている毎日なんですけどね。
私らはどこかで修業したとかじゃなくて、素材だけで勝負している。魚と塩だけしか使わない。それが自信でもありました。でもこの先どうしていこうかっていうのが、ちょっと課題でね。
年配の漁師たちは津波で船を流されたりして、どんどん廃業していってる。港に揚がる魚の種類がガタッと減っちゃったんです。
それに、これまでは蛸島の港で朝4時、5時から水揚げされて市場に並ぶ魚を仕入れることができた。でも今は、道路が悪く流通の時間が合わないから、箱詰めもせず、氷に突っ込んだまま、トラックでドーンと金沢へ直送されていく。結局、地元にいい魚が残らなくなっちゃう。
震災前は、ほぼ100パーセント、「蛸島か輪島産、地物の魚を加工してます」って言えたけど、今度は石川県産、金沢産というようなことも考えないとやっていけないんじゃないかって思っています。
息子は私がちょっと病気したときに戻ってきてくれたけど、いざ教えようっていうときに震災があって。それでも、魚、加工、やり方が変わっていくなかでも、「やりたい」と言って手伝ってくれている。
これまでは塩だけで乾燥機にかけとればよかったけど、これからはブリみたいな大きなサイズのものを切り身にして味噌漬けや塩麹漬けにして、抱き合わせでやっていかないと厳しいかもしれないとも思う。
でも、うちは作ったらまず食べてもらう。試食してもらって「いいね」って言ってもらえたら、それが一番。そういう実直な仕事を、またゼロからここでやっていくだけです。
取材後記
番匠さんの言葉には怒りが滲み出ていました。「工場を失ったこと」「大切な魚を腐らせてしまったこと」「動かない役所」「見えない将来」……。でも一番は「進まない時間」だったように感じました。
震災ですべてが止まっても、生活をするためにアルバイトをしながら再建をじっと待つ日々。ぶつけようのない怒りが大きくなるのは仕方のないことかもしれません。
でも奥さんは言います。「周りにお客さんがいるとかいないとかじゃない。美味しい、新鮮なものを届けたい。この人はただそれだけが好きなんです」。
怒りながらも、魚と塩だけで勝負する自分の仕事に対する誇りが「またゼロからここでやっていくだけ」という番匠さんの背中を押しているようです。
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2025年12月の取材から長い時間が経ってしまいました。このたび、記事の確認をお願いしたところ「当時の気持ちそのまま」とお返事をいただきました。
改めて2026年9月に撮影に伺いました。作業場の隣の倒壊した建物もきれいに片付けられました。雨が吹き付けるなか、トタンの仮作業場でお話を伺った12月。そして番匠さんが奔走し続けた結果、ご夫妻が思い描いていた新しい作業場が完成。ここで作られるおいしい干物が全国の甚五朗ファンに届くのももうすぐです。ご夫妻と息子さんと。“さかな屋 甚五朗”のリスタートです。





