かつて奥能登の商業の中心地として栄えた珠洲市飯田町(すずし・いいだまち)。町中が熱気に包まれる「飯田町燈籠山(とろやま)祭り(正式名称はおすずみ祭)」の季節が、まもなくやってくる。
飯田町は、祭りを通じてそのつながりが維持されている地域だ。だからこそ、町の人々にとって「祭りはあって当たり前」の存在。令和6年能登半島地震が起きた2024年も、燈籠山祭りは休むことなく執り行われた。町中が傷つき、多くの人が避難生活を送る過酷な状況下にあっても、飯田の人々は祭りの灯を絶やすことはなかった。
しかし現在、急激な人口減少や震災被害の爪痕が残るなか、町は非常にシビアな過渡期にあるという。春日神社の27代目宮司・葛原秀史(かつらはら・ひでふみ)さんに、率直な胸の内を聞いた。
[取材・構成 米谷美恵]
解体工事が一段落し、街に訪れた「静けさ」と「寂しさ」
珠洲市では、昨年(2025年)の暮れに、公費解体がひと通り終わりました。それまではトラックやダンプなどの工事車両で1日中騒がしく、あわただしい毎日でした。それが今年(2026年)の年明けくらいから落ち着いてきて、かつての静けさを取り戻しつつあるように感じています。
ただ、それは裏を返せば「寂しくなってきた」ということでもあります。ご承知のとおり、懸念材料の一つは人口の減少です。 元の場所に家を建てるのか、飯田町を離れるのか。仮設住宅に住む方たちがどのような選択をしていくのか、今ちょうど過渡期を迎えているのだと思います。
荘園の時代からおよそ765年、周囲の人々が繋いできた27代目の重み

もともとここは、能登の藤原氏が治める「若山荘(わかやまのしょう)」という荘園があった場所で、「鎮守神(ちんじゅがみ)」が祀られたのが最初でした。全国にある春日神社のほとんどは、奈良の春日大社の神様を勧請(かんじょう)して創建されます。藤原氏支配下にあったこの場所には、藤原家の神職が派遣され、春日の神様をまつり、春日神社として創建されたということです。それが1261年、今から765年ほど前、鎌倉時代のことです。
私で27代目になりますが、初代宮司以降、代々直系だけで受け継がれてきたわけではありません。父も祖父も直系ではありませんが、そうやって多くの人の手でつながれてきた重みを感じています。
神事は縮小しつつも、街の一体感を維持するために燈籠山祭りを出す

7月の燈籠山祭りは、町をあげての祭りですから、震災後も震災前と変わらず、神輿を出しています。有名な祭りですし、特に震災後はいい意味でも悪い意味でも注目されていますからね。昨年(2025年)は連休だったこともあって、たくさんの人が集まってたいそう賑わっていました。
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燈籠山祭り以外にも、春祭、鎮火祭(ちんかさい)、市姫祭(いちひめ祭)、秋祭など、毎月のように何かしらの神事があります。例えば鎮火祭は、江戸時代の終わりころ、飯田の町を焼き尽くすような火事が頻発したために火の神様をお祭りしたことに端を発しています。本来であれば、神輿も出して、御神楽もやるのですが……。
しかし現在は、神輿(みこし)は出せない。氏子さんの状況を考えると、「震災前のような形で祭りをやるのは無理やな」と考え、神社の中での祭典にとどめています。
祭りを縮小しても、氏子のみなさんは何もおっしゃいません。
毎年、氏子さんのご自宅一軒ずつへ、神棚に収めるためのお札(ふだ)を配りに行っています。仮設住宅にはもちろん神棚はないのですが、それでも「来てほしい」という氏子さんもいらっしゃいます。
昨年末にも伺いましたが、こちらから積極的に「祭りをやりましょう」と言える状態ではないな、と感じました。今は、どなたも生活だけでいっぱいいっぱいで、祭りどころではないんだと思います。
「まだ復興とは言えない」からこそ、現在のリアルな姿を生で見てほしい

最近、だんだんメディアの発信が少なくなってきているな、現状が伝わっていない部分があるなと感じています。
能登から離れているかたは「丸2年経ったんやから元に戻っとるんじゃないか」というイメージなのかもしれません。でも、実際に来てもらえば、更地だらけだし、家もまばらだし。そういう状況を見てほしいなと思いますね。実際に来て、見て、感じとったことを、誰かに伝えてほしいと思っています。正直なところ、何かをしてほしいというステージはもう過ぎているんですよね。
ただ、「来てほしい」と言ったところで、泊まるところや食事ができるところが少なくて、十分なおもてなしができないという問題もある。そこが難しいところです。
飯田のDNAをもつ人に期待すること
今、一番、困っているのは氏子さんがどんどん減っていること。子どももどんどん減っていて、すごい危機感を抱いています。
最近は移住者のかたも増えていてとてもありがたいんですが、まずは飯田に生まれ育って一度外に出た人たちに戻ってきてほしいんです。そして祭りの担い手、その歴史や精神の継承者になってほしいと強く願っています。私自身がここで生まれ育った人間だからこそ、余計にそう思うのかもしれません。
そういう人たちは、帰ってくれば仲間もいる。祭りが放つエネルギーも忘れていない。子どものころから祭りを見ながら育っていますから。ここで育ったなら、祭りの根本的な精神はきっと継承されているので。仕事や家などいろいろ問題はあるとは思いますが、そういう人材にこそ戻ってきてほしいと思っています。
3年連続して起きた能登の大地震

ご存じないかたも多いと思いますが、珠洲は3年連続で大きな地震が起きています。1回目は2022(令和4)年6月19日(マグニチュード5.4・最大震度5強)、2回目は2023(令和5)年5月5日(マグニチュード6.5・最大震度6強)、そして2024(令和6)年1月1日(マグニチュード7.6・最大震度7)。
まず2022(令和4)年の地震は、被害は局地的なものでしたが、うちは鳥居が倒れるなど散々でした。周りの家の被害はそれほどでもなかったこともあり、みなさんの目は一心に神社に集まりました。急ごしらえで竹で鳥居を作って、地震から1か月で祭りをやりました。「来年の祭りに間に合うように」と動いて、2023(令和5)年7月には鳥居も建てて、参道も新しくなった状態で、燈籠山祭りを実施しました。
そして、2024(令和6)年1月1日。せっかく建てた新しい鳥居がまた倒れました。2022(令和4)年の地震のことを知らない人たちが「どうしてまだ直していないの」と思っても仕方ないのかもしれません。
人々も祭りも神社も。焦らず、少しずつ前を向いて

珠洲・飯田町のいいところは、やっぱり人と人のつながりでしょうか。それは祭りを通じて強力に発揮されます。祭りをすることでそのつながりが維持されている地域だと思います。だからここらの人にとって祭りはあって当たり前なんです。災害時の助け合いとかコミュニケーションにおいて、人のつながりがものすごく発揮されるんです。
燈籠山祭り以外の祭りが元に戻れば、氏子さんたちの気持ちも、少しずつ神社に向いてくれるのではないでしょうか。ただ、私としては、氏子さんの生活環境がしっかり安定しないことには、今、ここで何かをしかけるのは時期尚早かな、もう数年は様子をみようかなと思っています。でも、今年の秋は神輿を出そうと思っています。若い衆はパワーが有り余っていますから。
とはいえ、鳥居も建てたいし、境内も元に戻したい。社殿もこのままでは神様に申し訳ないので、早く治したい。2022(令和4)年の地震で鳥居が倒れたときにやったクラファンのノウハウもあるので、少しずつ前を向いてやっていきたいですね。
取材後記
令和6年能登半島地震から3年目。能登以外の地域では、少しずつ報道が減り「もう復興したのでは」と思っている人も少なくありません。しかし実際に能登の町を歩いてみると、まだまだ解体を終えた更地が点在しています。
「今は生活が第一」「まだ何かをしかける時期ではない」。氏子一人ひとりの暮らしを思いやるその言葉には、飯田に生まれ育ち、長く見守り続けてきた人だからこその覚悟がにじんでいました。そして同時に「祭りを絶やしてはいけない」という強い信念も感じます。
祭りは決してその場限りのイベントではなく、人と人と絆を維持するための大切な営み。そして祭りを守ることは、人を守ることにもつながっていく。
今年もまもなく「燈籠山祭り」が始まります。その風景が、これからも飯田町にとって「あって当たり前」であり続けますように。




