能登町の海沿いを走る「能登半島絶景海道」とも呼ばれる国道249号から山側に一本奥の道を入り、緑に挟まれた坂を上ると、「FLATT'S ふらっと」の看板が見えてきます。
オーストラリア人シェフのベン・フラットさんと、女将で妻の船下智香子(ふなした・ちかこ)さんが約30年前から始めた“能登イタリアンと発酵食の宿 ふらっと”。「能登の暮らしや文化を伝えたい」と、和風の小さな宿にこだわりの料理で1日4組までの宿泊客をもてなします。
令和6年能登半島地震を経て、地域への思いがさらに強くなったという智香子さんに、これからの能登の宿のあり方などについてお聞きしました。
[取材・構成 関口威人]
料理民宿の娘がオーストラリア人シェフと出会う
私の実家はもともと、この能登町で「料理民宿さんなみ」という宿をやっていました。ちょうど三波(さんなみ)公民館のある波並(はなみ)の国道沿いです。
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宿は祖父母が始めましたが、両親も郷土料理を極めた人たちで、父はいしり(魚醤)づくりの名人として石川県の「ふるさとの匠」に、母は農林水産省などが選ぶ「農林漁家民宿おかあさん 100 選」の1人に選ばれています。そんな両親が波並で祖父母の宿を引き継ぎ、やがて1km余り南西の矢波(やなみ)に移転しました。両親が建てたその矢波の建物が、現在の“ふらっと”です。

ただ、私は長女でしたが、最初は宿を継ぐのではなく、自分の夢だった日本語教師になりたくてオーストラリアに渡りました。現地の家庭にホームステイをしながら1年間、日本語教師をして、そのときに出会ったのがのちに夫となるベンです。
私のホームステイ先でもあったベンの実家は、過去に「Flatt's cafe」というレストランを経営していました。ベンは小さいときから料理をつくる両親の姿を見て、イタリアンのシェフになったんです。国は違うけれど、ベンと私は似たような境遇で育ってきたと感じました。
そんな彼は、私が日本に帰国してから遠距離恋愛を3か月ほど続けた後、オーストラリアでの仕事を辞め、家を引き払ってカバン2つぐらいで日本にやってきました。能登に滞在しながら、ちょうど建物の基礎をつくっていた新しい宿の土方仕事や、古い宿の料理の手伝いなどを一生懸命やっているうちに、最初は私たちの結婚に反対していた両親も「まあ、わかった」という感じに。左利きの彼のために父が左利き用の和包丁をプレゼントしてくれたことで受け入れられたと感じ、結婚して今に至っています。

「能登の文化と伝統を残す」ために民宿や会社経営
当時、この地域に定住している外国人はほとんどいませんでした。だからベンは最初、びっくりされもしましたが、地域の人たちは本当にやさしく、ベンに暮らし方を親切に教えてくれたり、「これ食べたことないやろ」と言って食材を持ってきてくれたり。もちろん、最大のサポーターは両親でした。
そんななかで彼が一番衝撃を受けたのが、能登の発酵文化です。能登は魚介をおいしく保存するため、多種多様な発酵食が考え出された世界でもすごくユニークな土地。ぬか漬けしてバケツに重しを置くだけで、冷蔵庫にも入れていない1年前の魚を食べるなんて、彼の料理人生にはないこと。「大丈夫なの?」と驚きつつ、その奥深さにどっぷりとつかっていきました。今では彼の方が、私以上に能登の食材や風土にほれ込んでいます。
そうして私たちは、最初は祖父母が宿をしていた波並の建物で“ふらっと”を始めました。能登の暮らしぶりを伝える宿とレストランにしたいと、朝は和食で能登の郷土料理を、夜はベンが地元の食材でイタリアンをつくり、囲炉裏の間に輪島塗の御膳で料理を出しました。受け入れられる宿泊客数は、波並のころは1日3組限定、矢波に移ってからも1日4組限定ですが、ありがたいことに口コミやメディアの取材などで少しずつお客さまが増えていきました。

ところが、2020年からのコロナ禍で客足が途絶え、いったん休業せざるを得なくなりました。そのときベンは55歳、私は50歳ぐらい。「私たちが今の健康を維持しながら全力で突っ走れるのは、あと10年くらいだよね」と夫婦で話し合い、この先の10年で何をしたいのかを考えました。結論は「能登の大切な文化や伝統を残すこと」。そこで地域(ローカル)の大切なものに光(ライト)を当てようという思いを込め、「ローカライト」という株式会社を立ち上げました。
文化は人がいないと残りません。人にいてもらうために、まずは空き家問題を解決しなければと、地域の空き家を借りて修繕し、ゲストハウスやレストランを運営。利益を出して借金を返し、収支がプラスになったら大家さんに家を返す。そうすれば大家さんはまた誰かに家を貸して、新しい人が住んだり、ビジネスが生まれたりする。そんな構想にもとづき、1年間で2棟の空き家をゲストハウスとして再生しました。
「よし、これから10年間でこれをやり遂げるぞ」。そう意気込んでいた矢先、宿の開業からわずか半年後に震災が来てしまったんです。

震災後は物資の配布や輪島塗のレスキュー活動も
2024年元日の地震で“ふらっと”の宿は、倒壊は免れました。しかし、ローカライトのゲストハウスのうち、能登町鵜川(うかわ)地区の1軒は全壊してしまいました。
停電が続き、ようやく1月4日にテレビがつくと、映し出されたのは輪島朝市の火事や各地の津波の被害。もう「能登がなくなってしまう」という強い危機感や悲しみに襲われ、人間の無力さを痛感しました。生きることや暮らすことさえままならないなかで、1日1日を必死に過ごしていました。そのなかでたくさんの方にサポートをしていただき、自分たちもできることから始めようと思い立ちました。
能登の文化を本気で守っていくのなら、自分たちだけでは無理。たくさんのボランティアの力も借りて、スピード感をもって動き出さなければ。そう考えて非営利型の一般社団法人「能登地震地域復興サポート(通称のとサポ)」を設立。最初は炊き出しや物資の配布に奔走し、その後は「輪島塗のレスキュー活動」を始めました。地震で倒壊した蔵などに残る輪島塗を、持ち主の依頼で救出する活動です。
これまでに3,000枚ぐらいの輪島塗をレスキューし、丁寧に洗浄や検品をして包装。そのうち300枚ほどは無償で持ち主や地元の方にお渡しし、100枚ほどは能登以外で「サポートしたい」という方に1口2万円の活動費支援の代わりに、御膳のセットでお送りしています。これは遠隔地からでも「輪島塗を次の世代へつなぐ」お手伝いとなる活動です。ぜひ、のとサポのサイトから「能登サポーター」登録をしてみてください。

「小さな宿」に泊まりに来る人にこそサポートを
宿の方は1年3か月の休業を経て、ようやく再開することができました。ただ、露天風呂はまだ壊れたまま。全壊したゲストハウスのかわりとして、トレーラーハウスを使った仮の宿も今年3月になってようやく営業許可が下りたところです。しかし、震災前のようには、まだまだお客さまが戻ってきてくれません。
行政の観光支援キャンペーンは、貸切バスを使うような団体客向けが中心です。そうすると、私たちのような小さな宿に来てくれる個人や少人数のグループは当てはまりません。でも、私はそういう方たちにこそ、サポートをしていただきたいと思っています。皆さん本当に能登が好きで、応援したいと思って来てくれる人たちだと考えているからです。
なかには、能登に来ていいのだろうかと遠慮されている方もいるかと思います。確かに、いまだに復旧していない道や建物はいっぱいあります。でも、私はそれらを含めた能登の現状を、ぜひ見に来てほしいと願っています。
「これからの能登はどうなるの?」とか「仮設住宅での暮らしってどんな感じ?」といった疑問は、誰にでも気軽に聞けるわけではありません。だから、私たちのような小さな宿に泊まって地元の人たちと接してもらうことが、本当の現状を知るきっかけや第一歩になると思います。能登に心を寄せ、能登の今を知りたいと思って来てくださる方とお会いすることは、私たちにとっても何よりの励みになります。
地域でも人がいない、営業もできないという負のスパイラルに陥るのを避けないといけません。能登町では震災2年目以降も宇出津(うしつ)のお店が何軒も閉店してしまいました。その一つであるスナック“ぶらんか”を今年、私の友人の、なとみみわさんが事業継承して復活させてくれました。
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小さいながらも、こういうところがちゃんと再開すると、また違うお店も復活してくれるでしょう。そうやって一つ一つ、街に明かりを灯す試みに、私たちはこれからも協力していきたいと思っています。

取材後記
宿の変遷を整理させてもらいますと、船下さんの祖父母が波並で開いた初代「さんなみ」は、ご両親が引き継いだ後の1997年に矢波に移転。空いた初代の建物で、ベンさんと船下さんが“ふらっと”を始めました。
それから15年ほどが経ち、ご両親が引退して「さんなみ」は廃業。そこに“ふらっと”が移転して、今に至っています。
そして昨年10月、初代「さんなみ」の建物で、船下さんの息子さんがイタリアンの店「:Re Noto CREW(リ・ノト・クルー) 」を開業したそうです。つまり4代にわたって、この地域で食文化をつないでいるということ! 物語は、まだまだ続いていきます。






