2025年4月29日、七尾市・一本杉通り商店街にオープンした「白馬咖喱(しろうまカレー)」。店主の守崎祐也(もりさき・ゆうや)さんは、地元の高校卒業後、北海道の大学で農業を学び、台湾でのワーキングホリデーを経て故郷・七尾に戻った。現在、農業とカレー店を両立しながら、若い人たちが集まる場所づくりや宿泊事業などにも挑戦している。震災から2年余り。多くの人々が「復旧」の先にある「復興」を模索するなか、30歳の守崎さんが描く能登の未来とは?
[取材・撮影・構成 米谷美恵]
北海道、台湾を経て七尾へ。農業をしながらカレー店をオープン

地元の高校卒業後、北海道江別市にある酪農学園大学に進学。酪農や農業などのさまざまなことを学びました。この分野に進んだのは、農業に興味があったからです。食べることが好きでしたし、将来は自分で食べるものを自分で作ってみたいと思っていました。「農業なら北海道だ」って頭にあったのかもしれません。
大学卒業後は、ワーキングホリデーで1年間台湾に行き、ホテルやラーメン屋さんで働くなどの経験をしました。
そして、2020年の夏ごろ、ちょうどコロナ禍の真っ最中に七尾に戻ってきたんです。でも、お金もないし、どうしようかなと……。そこで、もともと親がやっていた畑や近くの畑を借りて、少しずつ農業を始めました。畑では、そのときどきで採れるもの、例えば冬だったら白菜やカブ、大根、ブロッコリーなどの根菜類を作っています。
店を始めようと思ったのは、農業を始めた当時、野菜をつくるだけで生活するのは金銭的になかなか厳しかったから。
もともとスパイスを生かしたカレーが好きだったので、自分でスパイスを調合してカレーを作ってみよう、自分で育てた野菜とカレーの相性もいいんじゃないかと考えました。 最初はイベントに出店して、カレーと一緒に野菜も販売していたのですが、そのうちにやっぱりお店をやってみたいなと思うようになったんです。

でも今も農業は続けていますよ。朝、畑で野菜を採ったあと、店に来て仕込みをしています。お店で使っている野菜の多くは、朝、僕が畑で採ってきた野菜です。3、40アール(学校のプール4、5個分の広さ)の畑を基本はひとりで、ときどき父に手伝ってもらっています。特に4、5月の苗の植付時期や、夏場の収穫期はけっこう大変です。
震災をきっかけに感じた「変わらないことも、変わっていくことも大事だということ」

開業を準備中に、能登半島地震があったのですが、何があってもやろうと決めていました。むしろ震災があったからこそ、逆にインパクトもあるんじゃないかと思った部分もありましたし、準備を進めていたこの店舗のような場所はもう見つからないと思いましたから。
この場所は、地元でお店の設計や、内装、外装をされている岡田翔太郎建築デザイン事務所さんに紹介してもらったんです。岡田さんには、店舗デザインもお願いしたんですよ。

自分で事業計画書を書いて、銀行にも通って、いくらまでなら借りられるかなど、何度も話をしました。そこは結構大変でしたけれど、なんとか私の思いが届いて、開店にこぎつけたんです。
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人が減ったり、まだ壊れた建物が残っていたりするなかでの開業だったので、確かに厳しい状況でした。でも、どんな時代であっても商売をするのが厳しいことは変わらないと思っています。
オープンから1年経ちましたが、最近は「今まで通り」は通用しないということを痛感しています。2年目となる今年は、これまでのやり方を変えたり、時代に合ったやり方を考えたりしていかなければと思っています。
当たり前って、すぐに壊れちゃうし、変わっていくものだなって思いましたね。変わらないことも大事ですけど、ちゃんと変わることも大事なんでしょうね。震災をきっかけに改めて感じています。
一度外に出た僕だからわかる七尾の魅力と変えなければいけないこと
僕たちくらいの世代の人の店が一本杉通りに5店舗ぐらいになるといいなぁと思っています。僕は今年で30歳になるんですけど、同じぐらいの世代の人が増えてくるとまちの雰囲気も変わってくるんじゃないでしょうか?
今ここにいる僕たちがまず走って、人を呼べるような通りにしていけば、それを見た人が「私もここでやってみたいな」と思うかもしれない。ひとりで「ここでやります」っていうのはなかなか厳しいと思います。でも似たような年齢の人が何人かいたら、自分もやってみたいと思えるだろうし、先に店を始めた僕が協力できることもあると思うんです。先駆者として失敗できないですね。
最近、少しずつ移住者が増えているのは、素直にうれしいです。震災のなかった場所を選んでもおかしくないのに、あえてここを選んでくれたんですから。
僕自身一度外へ出ているので、客観的にこの地域を見ることができるから、良さも変えなければいけないところもわかるんです。だから移住してきてくれる人が増えるのは本当に心強いです。
和倉温泉もあるので、外の人がまちに大勢いるのはそんなに不自然なことではないと思います。車社会でもありますし、県外ナンバーも普通に見ていますから。
外から来る人に対しては「ありがとう」、まだ来たことのない人には「一回来て」という気持ちです。
それに、正直、地元の人だけでは限界があると思っています。なぜなら、単純に人が少ないし、平均年齢もだんだん高くなってきているから。その世代のかたたちが、僕たちみたいに何かやりたいと思っても、新しいことを始めるのはなかなか難しいんじゃないかな。もう、自分たちだけでまちを続けていくのは難しい段階に入っているから、次の世代につないでいくことも重要なんだと思っています。
一度外に出たから芽生えた気持ちなのかもしれません。自分だけ、今だけって思うと続かない場面を、あちこちで見てきましたから。
実際に商売を始めてみると、自分だけ得しようとか、楽をしようという気持ちも一時的にわいてくるかもしれません。でも長く続けるからには、みんなと協力していかないといけないし、「損して得取れ」じゃないですけれど、ときには泥臭い仕事もやっていかないと、みんなに見てもらえないし、認めてもらえないということはあるんじゃないのかな。
だから若い人がひとりでも増えて、新しい風、活気を取り入れることが大事なんじゃないでしょうか。
今の七尾は、インフラも維持できない、人は減って高齢化、若い人は少ない。ある意味日本のいろいろな問題を抱えている場所だと思うんです。そこに震災があったから、なくなるかもしれないとも言われていますよね。
でも、外から来た人がここでうまく商売したり、世界中から観光客が来たりする。そういう形ができれば、日本各地で限界を迎えた地域のモデルになれるんじゃないかなと思っています。七尾だけじゃなく、能登全体で考えていかなければいけない問題のはずですけどね。
復興とは「忘れられないこと」
復旧と復興は何が違うの? と聞かれることがあります。めちゃくちゃ簡単に言うと、復興は「忘れられないこと」だと思います。復旧して落ち着いてきたと聞けば、「じゃあもういいか」と忘れられてしまいますから。
だから、忘れさせない。その関係性を築くことですよね。
例えば以前、関西から若い子が来てくれて、1週間ここで手伝ってくれたことがありました。そういう働き方や暮らし方を提供して、人を受け入れることが復興につながっていくんじゃないかなと思います。
「生業(なりわい)に関わる」
「能登の祭りに関わる」
「生活に関わる」
年に1回でいいので、能登へ来る口実をつくっていくことがこれからの復興なのかな。
今の農業と飲食に加えて、宿泊業にも挑戦したいと思っています。
僕自身は、ドミトリーのように、短期間でも、そんなにお金がなくても泊まれる場所を作りたい。僕自身もそういう宿に泊まってきたので、そんな場所を作って、ひとりでも、ふらっと来て、長く泊まれるようになるといいですね。そして僕のお店や畑を手伝ってもらえればなおいいですね。循環というやつです。
そして、最終的には、ビレッジ、村のようなものを作りたいです。高校生でも、中学生でも、もっと小さい保育園くらいの子どもでもいい。彼らがやってきて、いろんな人と関わって、コラボして何かをつくる。そういう場所を作れたらおもしろいと思うんです。
取材後記
今回の取材で印象に残ったのは、守崎さんが何度も登場した「人」という言葉。若い「人」、移住してくる「人」、年に一度でも能登に来る「人」が増えてほしい。
「宿泊施設をつくりたい」という夢も、農業やカレー店を続けることも、その先にはいつも「人」の姿を感じました。
震災後の能登を取材しながら、これまで「人口減少」「高齢化」「担い手不足」という言葉を何度も耳にしてきました。守崎さんは、そのことを悲観的に語るのではなく、「だったら人が来るきっかけをつくればいい」と、どこまでも前向きです。
壊れた建物が片づき、道路が直り、まちが少しずつ落ち着きを取り戻していく。その一方で、東京など遠くにいる私たちの関心は少しずつ薄れていくのかもしれません。
そんななかで守崎さんは、「年に一度でもいいので、能登へ来る口実をつくること。能登とつながり続ける理由をつくること。それが復興」と話してくれました。まさに復興とは「忘れられない」ための理由をいかに作っていくか。30歳の若者が語る未来は、現実的かつ希望に満ちていました。
一本杉通りでスパイスの香りに包まれながら聞いた「復興」の話は、なんだか目からうろこ、私も腑に落ちました。これからの能登との関わり方を改めて考える時間になりました。





