奥能登の入り口、穴水(あなみず)町では令和6年能登半島地震後、町内最大の応急仮設住宅団地が町の陸上競技場に建設されました。中心街からやや離れた高台で、グラウンドにぎっしりと立ち並ぶプレハブの仮設住宅と、そこに向かい合って立つコンクリートの管理棟は、どうしてもそっけない印象です。でも今、その敷地内には木のぬくもりあふれる喫茶室があり、毎週末にはコーヒーやケーキの香りで満たされます。“ボラまち喫茶”と名付けられたそのスペースは、どんな経緯でつくられたのでしょうか。運営する認定NPO法人「レスキューストックヤード」の担当スタッフで、地元出身の濱下有紀(はました・ゆうき)さんに聞きました。
[取材・構成 関口威人]
避難所で「もらう」側から「手伝う」側へ
私は生まれも育ちも、この穴水町です。震災前までは、飲食の仕事とはかけ離れた一般企業で事務職をしていました。毎日パソコンの画面に向かって、電話対応をするような仕事でした。
2024年の元日は自宅のアパートにいて、翌日が仕事の予定でしたし、年末年始で寝不足気味だったので、少し横になろうとしていた時間。最初の揺れは「またちょっと大きめの地震だな」と感じ、家族と「大丈夫?」「うん、大丈夫やった」なんて話していたら数分後、経験したことのない「ドーン」という揺れが来ました。
本当に立っていられないぐらいで、目の前の家具や家電がガシャガシャと壊れていくのを見ながら揺れに耐えるしかありませんでした。揺れが収まると町内アナウンスで津波警報が伝えられ、「逃げろ、逃げろ」という声にせき立てられるように高台へ避難しました。
そこから、町の中心部で避難所になっていた「さわやか交流館プルート」に移り、避難生活が始まりました。当初は電気も水道も通っていないなか、みんなで雑魚寝する状態。食事はパンやおにぎりなどの非常食が提供され、黙々といただくだけ。私も、ただ「もらう」側。職場が閉鎖されて仕事もなくなり、やることがなくて気が滅入ってきてしまいました。
そんなとき、館内アナウンスで「炊飯ボランティアのお手伝いをできる方はいますか」といった呼びかけを耳にしました。もともと自宅でも毎日、自炊はしていましたし、誰かの役に立てるのなら手伝えるかもしれない。そう思って手を挙げたのが、活動の始まりでした。

仮設でも支援続ける名古屋のNPOに合流
その避難所の運営を支援していたのは、名古屋市の災害救援NPO「レスキューストックヤード(RSY)」。2002年に設立され、新潟県中越地震や東日本大震災をはじめ、2007年の能登半島地震のときにも穴水や珠洲で支援活動をしていた団体です。
私自身は、災害時にそんな活動をする団体があることすら知らなかったのですが、今回はRSYのほかに台湾からも支援団体が穴水に駆け付けてくれていました。そこに私もボランティアとして加わる形で、毎日のように避難所で炊き出しを続けました。
2月の後半からは、町が地元の飲食店組合に炊き出しを委託する「セントラルキッチン」という形式に。町が食材費だけではなく人件費も上乗せして委託費を支払うため、調理する人たちは仕事としてお金をもらえ、被災者には栄養バランスのとれた食事が届けられます。災害救助法を活用した町独自の仕組みで、「穴水モデル」と言われることにもなりました。
もともと飲食店を経営されていた方が中心となり、私はそのサポートをしながら主にお弁当づくりを担当。セントラルキッチンの活動は、避難所が閉鎖される2024年6月末まで続きました。
その前後、避難所にいた方々は仮設住宅へ移ったり、自宅に戻ったり、町外に移ったり。私は震災で一部損壊となったアパートは引き払い、別のアパートに移り住みながら新しい仕事を探し、生活を立て直そうとしました。
一方、RSYは穴水に常駐するスタッフを雇い、被災者支援を続けていました。町内で最も大きい応急仮設住宅団地は由比ケ丘(ゆいがおか)地区の陸上競技場に建設されましたが、周辺にはスーパーも喫茶店もありません。ずっと仮設の狭い部屋に引きこもっていると心も体も悪くしてしまいます。そこでRSYは町と掛け合い、陸上競技場の管理棟の一室を町から無償貸与してもらい、「みんなが集まってお茶を飲める場所に」と改装。ボランティアがいつでも待っているという意味と、穴水の名物でもある「ボラ待ちやぐら」にかけ、「みんなの居場所・ボラまち亭」と名付けて2024年6月にオープンさせました。
その後、RSYの活動に私が直接関わる機会はありませんでしたが、1年ほどして「ボラまち亭」とは別に喫茶店みたいなものを開くので、調理もできるスタッフを探しているという話を聞きました。そこで私はまた「やります!」と手を挙げ、2025年6月からRSYの正式な地元雇用スタッフになって“ボラまち喫茶”開店の準備に入ったのです。

パンづくりの「修行」を経て喫茶オープン
ただ、私は本格的にパンやケーキをつくったことはありませんでした。そこで1カ月ほど「修行」の期間をいただいて、食パンを焼く練習やメニューの試作を繰り返しました。セントラルキッチンで試しにつくってみたシフォンケーキも、人にお出しできるように練習を重ねました。
喫茶スペースは、ボラまち亭と廊下をはさんで向かい側にある管理棟の一室を木の壁や床に改装。木のテーブルやいすも並べて、ぬくもりを感じられる雰囲気に。民間の助成金の活用や埼玉県の「ジャンクオーガニックス株式会社」などの協力で、調理器具なども最低限のものを入れられました。
そして2025年7月から、まずは毎週日曜の午前9時半から11時半にモーニングセットの提供をスタート。食パンにゆで卵かスクランブルエッグかを選んでもらい、サラダや季節のスープもつけて300円で売り出しました。8月からは毎週土曜も午前10時から午後2時まで開店し、手づくりのシフォンケーキにドリンクをつけるケーキセットを200円で販売し始めました。
コーヒー豆は、炊き出しのときから支援をしていただいている神戸市の「石光商事株式会社」から調達しています。コーヒー豆がすごく値上がりしているなかでも格安で提供できているのは、この会社のご厚意のおかげです。豆の種類も毎回変えてもらい、ハンドドリップでの抽出の仕方も教えていただきました。
一方、野菜や小麦粉などの食材はすべて国産を選び、一部は穴水町のものを使っています。シフォンケーキに添えるジャムも、ボランティアの方からいただいた果物などを使って私がほぼ手づくりしています。リンゴや柿のジャム、それにカスタードクリームや小倉あんもつくり、お客さんに選んでいただけるようにしています。
来てくれるお客さんの多くは、仮設住宅に入居されているお年寄りやそのご家族。「ここで一杯コーヒーを飲むのが落ち着くわ」と言ってくださる常連さんも増えました。なかには口コミで遠くから来てくださる方や、震災後にお互い久々に会ったという人たちの姿も見られ、こうして集まれる場所があるのはやはりいいなと思います。仮設団地の中にあるので「仮設の人しか入れないんじゃないか」と遠慮される方も多いのですが、どなたでも大歓迎です。


生まれ育った町で「いつか自分の店を」
この活動は、私にとってもいろいろな意味で励みになっています。一人でいると、どうしてもふさぎ込んだり、悪いほうに考えたりしてしまいがち。でも、ここに来れば誰かと関わり、料理をつくって、おいしいと言ってもらえます。正直、生活水準は震災前に戻っていませんし、ほかにもアルバイトをしているので体力的にきついときもありますが、精神的には事務職をしていたときよりもずっと前向きです。実は将来、いつか自分の飲食店を持ちたいという夢もあるので、とてもいい経験になっています。
この町も公費解体が進み、歩いていると「ここ、何があったっけ?」とわからなくなってしまうことも増えました。でも、やっぱり生まれ育った場所なので、ずっとここにいたいという気持ちは強いです。穴水の人たちは温かくてやさしいので、ぜひ気軽に足を運んでほしいと思います。
RSYでは、今も定期的にボランティアを募り、ボラまち亭の運営サポートや在宅・仮設住宅への個別訪問などの支援を続けています。金曜朝に名古屋市内の事務所から車(ハイエース)で出発し、ボラまち亭に2泊(宿泊代は無料)して日曜に名古屋に戻る日程。6月はボラまち亭2周年イベントのため、普段より多くボランティアを受け付ける予定です。
穴水に着いたらぜひ“ボラまち喫茶”にも寄って、ケーキやコーヒーを味わいながら地元の人たちと交流もしてください。(営業時間:毎週土曜午前10時〜午後2時、日曜午前9時半〜11時半)

取材後記
名古屋から被災地に通う取材者である私は、RSYとは長く深い縁があります。「ボラまち亭」ができたときもすぐに様子を見に行き、2024年9月の奥能登豪雨では支援の支援として、名古屋で購入したペットボトルの水を年末まで毎月10箱ほど届けに行きました。管理棟の廊下はそうやって全国から届いた水入りの箱でいっぱいでした。
そんな廊下に続く一室が、“ボラまち喫茶”に生まれ変わるとは。今回、喫茶室の扉を開けて木に包まれた内装が目に飛び込むと「うわー、すごい!」という言葉が口を突いて出ました。そんな驚きと感動が、これから穴水町のあちこちで感じられるといいなと思います。それは、いつか「濱下さんのお店」で感じられるかもしれませんし。




