七尾市一本杉通りに店を構える“昆布海産物處しら井”。2023年12月、後継者問題や年齢を考えてご夫妻は90年以上続いた店を閉める決断をした。しかし、そのわずか1か月後に白井 修(しらい・おさむ)さん、洋子(ようこ)さん夫妻を令和6年能登半島地震が襲った。
加工場は壊れ、多くの機械設備が失われた。それでも再び暖簾(のれん)を掲げることになったのは「店を開けてほしい」と願う多くのお客さんの存在があったからだという。
95パーセントが固定客。店の商品はもちろん、ご夫妻との会話や一本杉通りの風景を楽しみに訪れる。
能登の建材で建てた店。能登の大工が手掛けた建物。能登の祭りと食文化。そして全国から訪れるお客さんとのつながり。一本杉通りで守り続けてきたものは何か? 白井さんご夫妻に話を聞いた。
[取材・構成 米谷美恵]
取材:2026年1月25日(追加取材:2026年7月17日)
地震の1か月前に一度は閉めた店。それでも応援してくれる人がいるから

白井 修さん(以下、修):
実は地震の1か月前に、後継ぎのこともあって一度閉店することにした。でも、何代にもわたって応援してくださったお客さまから、「暖簾(のれん)をあげてくれ」と言われて、地震から1年半後の花嫁のれん展のときに暖簾だけでもかけようかと家内と話ししとった。
白井洋子さん(以下、洋子):
そうしたら、今度は「なんでもいいから品物を置いてくれ」と言われて。じゃあ、置けるものだけ置こうかと。
修:
以前やったら、冷蔵庫にはたくさんの在庫があったけど、加工場もだめになって、冷蔵庫も使えないから、昆布巻や昆布豆、にしん飴炊きも作れない。売れるものは、全盛期の10分の1ぐらいしかない。
洋子:
お客さんが欲しいというものがなくて本当に申し訳ないと思うんです。
修:
でも、みなさんが応援してくれるから、週末の金、土、日の3日間だけ店を開けています。
「ひどいひどい」と思っても、もっとひどい人がおったら「まだ喜ばんなん」って思う。それが能登の人
洋子:
地震が起きたのは、令和6(2024)年1月1日午後4時10分。すごく揺れて、立っても座ってもいられんかった。そうこうしていると、外から小丸山城址公園(こまるやまじょうしこうえん)に避難する人たちの声が聞こえてきました。私たちも避難せないかんと玄関を出たら、どこかからシューっと音がするんです。4本あったガスボンベのうち1本のチェーンが切れて倒れとった。窓のガラスサッシがかたがっていて鍵が開かないから、主人がかなづちをもってきてガラスを割ろうとするんやけど、準防火地域でガラスに金網が入ってるんです。力いっぱい叩いてもなかなか割れなくて、そのうち火花が出るし、もうもう大変でした。
修:
「大変だ」って言っても、能登の人ってね、「ひどいひどい」って思っても、もっとひどい人がおったら「私たちまだ喜ばんなん」って言う。考えてみたら俺たちもそうかなと思ってね。
能登のスローフード「巻鰤」を次の世代につなげていくために

洋子:
巻鰤は、能登で昔から作られている保存食です。今は養殖もあるからブリはいつでも食べられるけど、昔は冬しか食べられんかった。だから夏のお盆にお墓参りに来る人をもてなすために作っていたそうです。江戸時代には献上品だったっていうのを県の資料で見て復活させようと思いました。
能登産の寒ブリを3枚におろして背と腹にわけ、2週間ほど塩漬け。紐を通し竿にかけて2週間ほど陰干しします。そのブリをわらで包んで縄で巻きあげ、2月の雪が降る頃、軒先に吊るします。梅雨が明けるころになると、余分な油はわらにしみ出し発酵熟成が進むんです。そしてお盆のころ、吊るしておいたブリを軒先から下ろし、縄を解きます。夏に食べる、いわゆるスローフードですね。12、3キロのブリから4本ほどの巻鰤が作れます。
修:
新酒ができたときに酒蔵や酒屋さんが杉玉を軒先に下げるのと同じで、うちも「今年も作りましたよ」って、50本近く軒先にぶら下げとったこともあります。
今はもううちで巻鰤は作っていないんだけどね。「途切れさせちゃいかん」と、家内が能登のシェフ3人と金沢のシェフ1人に作り方を教えながら、一緒に作っているんだね。
地震のときに竿が折れて、家内と能登のシェフたちが一生懸命作って吊るしておいた24本の巻鰤が全部落ちてしまった。

しら井の再開を知った客が日本全国から訪れる

修:
うちは常連のお客さんが多く、そのうち、金沢・富山からのお客さまが3分の1くらい。昆布や海苔などを求めて来てくださるお客さまです。
洋子:
この間も川越から「朝4時に出て来たよ」って昆布を買うためだけにいらっしゃったかたがいました。最初は旅行に来たのがきっかけだったそうですが、それからずっと通っていただいています。「お店が開いててうれしかった」って川越名物のサツマイモを送ってくれたんですよ。
「SNSを見た姪っ子から『しら井さん開いとるよ』ってLINEが来た」と言われることもある。京都に住んでる女の子は「案内するから京都に来てください」って手紙をもって訪ねてくれた。本当に涙が出ますよ。ありがたいね、お客さんって。
修:
「孫が他で買ってきた海苔を食べん」っておばあちゃんが言いに来てくれたり、個人のお客さんが「いつまでもちますか?」って言いながら、500グラム入りの羅臼昆布を5袋、10袋と買っていく。
石川県の県木である档(あて)の木と、能登の大工、能登の設計士で、能登のものを売る店をつくる

修:
この店は七尾の町家を再現して、平成4年に建てました。そのときには、全部、能登の档(アテ)の木(アスナロ材)を使っています。いまはもう档の木も手に入りづらくなってしまったし、加工できる大工さんもいないし。だから、どうしても残していきたい。
洋子:
納得いく設計士さんに出会うまで4年かかりました。主人と全国数十か所の建物を見て回って、行き着いたコンセプトは「能登の建材で、能登の大工さん、能登の設計士さんで、能登の物を売る店をつくる」です。柱と梁は全部輪島塗の拭き漆です。冷蔵庫の前面にも拭き漆を塗ってあります。
修:
地震で建物の柱がずれたり、壁が落ちたり、ひびが入ったりしたけど、土台がしっかりしていたからこうして残っている。ありがたいことだね。
店を再開してよかったことは、訪ねてくれたお客さんと話ができること

修:
やっぱり残していきたいのは祭り、青柏祭(せいはくさい)やね。どこにおっても鐘の音、聞かんかったら、なんか1年を過ごせん。もうじっとしていられない。
青柏祭のでか山は日本で1番でかい。動かすのに100人ぐらいいるんやけど、みんな祭りのために帰ってくるんです。
洋子:
夏になったらぜひ能登に来てほしい。毎週土曜日にどこかで祭りやっとるから。
修:
花嫁のれんをまちづくりにって考えたのも一本杉通りのおかみさんたちなんです。
洋子:
花嫁のれんを飾るのは、加賀・金沢から穴水あたりまで。前田家の統治下だったところで今も続いています。最初は、ちっちゃいところで、のれんを1枚だけをかけたり、当番制にして借りた場所でのれん当番したりとか。 みんな若かったから一生懸命だったし、一本杉通りに少しでも貢献できたらいいかなと考えてた。
修:
ぼくにとっては、七尾も一本杉も、生まれ育った場所だから、この風景を壊したくないと思っている。今すぐに、あわてて何かをしておかしなことになるよりも、今のままの姿でいいから、なんとか1日でも長く持ちこたえていきたい。その間に周りの復興も少しずつ進んでくるはず。だから、今はできることをできる範囲でさせてもらえればいいのかなと思っています。
洋子:
店を再開して1番よかったのはね、お客さんが来てくださって、今どこにおる、何しとる、どうやったよ、どこに避難しとったんとかって、話ができること。震災でうちに住めんくなって今でも仮設住宅にいる人もいますからね。
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編集後記
遠くから訪れるお客さんとの関係は「売り手と買い手」で終わっても不思議ではありません。しかし白井さんご夫妻にとって、お客さんは商品を買ってくれるだけの人ではなく、人生のどこかでつながった大切な人たち。地震の1か月前に一度は閉めた店。それでも再び暖簾(のれん)を掲げた理由は、「待っていてくれる人がいるから」でした。
能登の建材で建てた店、能登の大工や設計士が手がけた建物、祭りや食文化、そして一本杉通りの風景。白井さんご夫妻が守ろうとしているものはたくさんあります。 けれど、その根っこにあるのは、どれも人と人とのつながりであるような気がします。
震災から2年半。失われたものは決して少なくありません。それでも、ここには変わらずに客を迎える暖簾が揺れ、再会を喜ぶ声が響いています。「店を開けて一番よかったのは、お客さんと話ができること」という洋子さんの言葉がそれを物語っています。
一本杉通りの片隅で紡がれる、人と人との物語。これまでも、これからも。ずっと続いていきますように。




