石川県珠洲市。能登半島の最先端にある、この小さなまちに創業120年余の菓子店“多間栄開堂(だまえいかいどう)”がある。看板商品は太鼓饅頭(たいこまんじゅう)。珠洲にしかない饅頭だ。
令和6年能登半島地震で店舗は全壊。それでも、「石川県なりわい再建支援補助金」に3度チャレンジし、2024年7月に店を再オープン。当日は開店を待ちわびる人の長い行列ができたという。
店主の多間俊夫(だま・としお)さんと妻の淳子(じゅんこ)さんは、朝から晩まで二人で生地を焼き、あんこを炊き、あん玉を作る。74歳と73歳。「体が続く限りは商売を続けて、死ぬまで一緒にお菓子を作っていきたい」と話すお二人。黙々と太鼓饅頭を焼き続ける俊夫さんの隣で、淳子さんが話してくれた。
[取材・構成 米谷美恵]
卵がたっぷりの太鼓饅頭。生地も餡も焼くのもすべて手作り

材料はお砂糖と小麦粉とふんだんに使った卵に重曹を少々。昔は小麦粉がメインで、卵は少なかった。今は卵を多く使って空気を多く含んでいるので、生地がふんわり軽くなった分、時間が経つと生地が変化します。だから、生地はいっぺんにはこねられない。今は1度に作るのは、80個くらい。今日焼くのはこれで3回目です。
このあと、饅頭に使う「あんこ」を炊いて「あん玉」を作るという仕事も控えているからね。丸くした「あん玉」を手でぺったんこにして型に入れるのね。朝から半日お饅頭を焼いて、お昼からあんこを炊く。そして次の日にあん玉を作る。毎日毎日、同じことの繰り返し。
見よう見まねで覚えた。もうちょっとで半世紀

私はここの娘です。結婚後は、太鼓饅頭を焼くのは夫の仕事になりました。先代だった私の父が作るのを見よう見まねで覚えて。息子の年とほぼ同じだから、太鼓饅頭を作るようになって47年。もうちょっとで半世紀になります。
私の祖父はここから少し離れた場所で魚屋をしていました。でもあんまり儲からなかったらしく、戦後、近くのお菓子屋さんから簡単なお菓子の作り方を習って売り出した。そうしたら売れる売れる(笑) お菓子屋なら儲かると商売変えしたそうです。
そのお店では芋菓子やアイスキャンデーが大ヒット! ある程度お金が貯まったところで、ここの土地を買ってお店を建てたんです。
太鼓饅頭はほかでは見られない珠洲のソウルフード

私が子どものころには父親が太鼓饅頭を焼いていましたから、7、80年ぐらいの歴史があると思います。
実はこの太鼓饅頭が作られているのは珠洲だけなんですよ。輪島にも、穴水にもありません。珠洲にはお饅頭文化があるんですよね。結婚式も赤ちゃんが産まれたときも、新築祝いから入学、卒業、就職のお祝い、お葬式まで、すべてお饅頭を配っていました。私たちがこうして商売させてもらっているのはそのおかげですね。
10年ほど前には、当時、珠洲の菓子組合の会長をしていた主人が、太鼓饅頭を珠洲の名物にしようと「太鼓饅頭プロジェクト」を立ち上げました。時代の流れか、今はもう人も減って、お菓子屋もほとんど残ってないのだけどね。
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襲いかかる大きな揺れ。その後の過酷な避難生活

実は2023(令和5)年5月にも大きな地震があり、建物の壁に亀裂が入ったり、柱が倒れたり大きな被害を受けました。それをようやく全部直し終えたのがその年の12月2日。「これで安心して正月を迎えられる、来年こそ頑張ろう」って話しとった矢先に再び地震が起きたのです。
2024(令和6)年1月1日。お正月だから子どもも孫も来ていて、みんなで寝転がりながら、そろそろ夕飯の支度をしようかというときに、あの地震が起きました。
そろそろ収まるかなと思った瞬間、次に襲ってきたのは経験したことのない大激震でした。お父さんの「外に逃げろ!」という声で、とにかく外へ。
次の大きな揺れが来て、グルグル、グルグルってまるで洗濯機の中にでも入れられて回っとるような感じでした。
電信柱につかまっていたら、その電信柱さえも斜めに倒れかかってきました。斜めになった電信柱の横で、揺れが収まるまでじっとしていましたね。揺れが収まると、今度はスマホから津波警報がガンガン鳴り響きます。「避難してください! 逃げてください!」の声に、知人らの車2台に分乗して高台を目指しました。最初に向かった飯田高校は車がいっぱいで入れず、若干空きのあった緑丘中学校のグラウンドへ。その日の夜は、照明も点かない車の中で過ごしました。
そこから2週間に及ぶ避難生活が始まりました。水は出ず、電気が使えるようになったのは3、4日経ってから。避難所での食事は、3食とも菓子パンでした。そんな過酷な環境のなか、お父さんが夜中にへんてこりんな咳をするようになります。周囲から「インフルエンザかもしれないから、一度病院へ行ったらどうか」と勧められ、そのまま金沢にいる息子の元へと車を走らせました。
店は全壊し、もう珠洲に戻っても帰る場所はありませんでした。
でもね、そんな避難所生活でも、震災直後の1月2日ごろ、お正月用に店にたくさん作ってあったお菓子を、取材に来ていたテレビ局の若い記者たちに頼んで崩れかけた店から引っ張り出してもらって、中学校の避難所に届けたんです。甘いものが一切なかった避難所の人たちを元気づけられたのがうれしかったですね。
県職員や甥。周りの人のおかげで再オープンできた

お店を再オープンするには、自力で集めた780万円だけではとても足りません。国や県の支援金制度を使おうと、被災した事業者のための「石川県なりわい再建支援補助金」にチャレンジすることに決めました。しかし、書類の手続きなども難しく、1回目は断念。
2回目も県庁へ行って話を聞くものの、なかなかうまく進みません。しかし、「協力するから、一緒にやろう」と言ってくれた県の担当者の言葉に背中を押されて、3度目の正直でついに申請が通りました。
ちなみに、お店を急ピッチで建ててくれたのは、甥っ子です。地震の前の年の10月に独立したばかりでしたが、「おっちゃんが店を再建するなら、俺が建てる!」と手を挙げてくれました。補助金が降りるのを待っていると開店が間に合わないため、先に工事を進めていました。不安な日々のなか、県の担当者が「絶対に降りるから心配しないで」と折に触れて励まし続けてくれたから、あきらめずにいられたのだと思います。
体が続く限りふたりでお菓子を作っていきたい
2025年7月30日。オープン当日は長い行列ができました。列の一番前にいたかたは泣いてらっしゃいました。
高齢のかたは、子どものころからあるお店がなくなってしまうと、町のなかで目印がなくなり、どこにどのおうちがあったか、わからなくなってしまうことがあるんです。「多間栄開堂はここにあるよ」と言える場所を復活できたことが何よりうれしかったです。
大変だったけど、再オープンしてよかったかなと思っています。震災から1年半、お父さんは太鼓饅頭をひとつも焼いていませんでした。でも、台の前に座ったらすぐ思い出したようで、失敗なんて一つもなかった。ちょっと感動しました。
息子はサラリーマンしているし、この店はうちらの代で終わらせるつもりです。
周りの人から「よく朝から晩まで一緒におられるね」って言われるんですけど、ふたりおらんとできないしね。それはそれでいいかなと思って(笑) 今、お父さんは74、私は73。体が続く限りは商売を続けていきます。あと10年はなんとか頑張れるでしょ。
編集後記
取材中、お父さん(俊夫さん)はほとんど手を止めることなく太鼓饅頭を焼き続けていました。そしてボソッとこう言いました。
「生地を立てるのは1回1回違う。時計で計るんじゃなく、目で見ながら、ここでいいかなって感じで焼くんです」
レシピやマニュアルだけでは作れない。長い年月のなかで積み重ねてきた経験と勘が、その一言に凝縮されているように感じました。
朝から太鼓饅頭を焼き、あんこを炊き、あん玉を作る。毎日同じことの繰り返し。でも、その「同じこと」を何十年も続けることは決して容易ではありません。ご夫婦にとっての日常。その積み重ねが珠洲の人たちにとっての変わらない風景を形作っているのではないでしょうか。
震災で店を失い、避難生活を送りながらも再開をあきらめなかった理由も、その風景を守ることにほかならないのかもしれません。
「夫婦ふたりで、体が続く限りは商売を続けたい」
その言葉どおり、お二人は今日も変わらず珠洲で太鼓饅頭を焼き続けています。




